食パンのある食卓と心の無人島で考える「疫病とわたし」

 今朝は子供の幼稚園がお休みのため、ばたばたと支度に追われることなく午前中を過ごした。起床直後から数日前のジムのトレーニングの成果も強く感じていたので(つまりは筋肉痛)今日はなるべく休日のように肩ひじ張らずに過ごそうと、いつも起き抜けに終わらせる化粧も手を付けず着替えだけ済ませてのんびりと過ごすことにした。こういう日を「心の無人島に行く日」と自分ひとりの心の内で呼んでいる。

 朝食には食パンを食べた。流行の単価の高い食パンではなく市販の、どこにでも売っている食パン。常に切らさず買い込んで冷蔵しておき、食べたいと思った時にすぐ取り出し好みにトーストする。それに安くもなく高くもないたっぷりのバターとジャムを塗って食べる。この瞬間が最近の無上の喜びだ。特にこれらを常備しておける、というのがより深い幸福感を錬成している気がする。それは私自身が、美味しいけれど少ししかないもの、たまにしか食べられないもの、というのを味わって喜ぶ感性が欠落しているので「いつでも、たっぷりと、かんたんに」食べられる美味しいものは、とても安定した幸福感を齎してくれる。その証明をするように、この「バターとジャムの何の変哲もないトースト」は子供にはあまり受けが良くない。アーモンドや粉砂糖がトッピングされチョコチップやクリームが挟み込まれた派手なパンの方が好ましいようだ。確かに、子供には「うまい」はわかるだろうが「簡単でうまい」の妙味はまだわからないだろうから仕方ない。

 そして子供が親せき宅を訪問する用事があったのでお迎えに来た親戚に挨拶し、一人になった午前中いっぱいは読書に勤しんだ。最近読み進めているのはガルシア・マルケスの「コレラの時代の愛」だ。これまではその表題から想像して、疫病の苦しみや恐怖、未発達な医療、そういう不遇な時代を背景に懸命に生きた人たちの恋物語、と勝手に内容を想定していたけれど、実際に中盤まで読み進めてみて、この題は「明治時代の愛」とか「大正時代の愛」とかにも通ずるようなものであって「コレラの時代=絶望と恐怖の時代」ではなく「事実として舞台がコレラという疫病が蔓延した時代なのでコレラの時代とし、その時代のとある愛の話なのでコレラの時代の愛としました」という感じだった。あなるほど、コレラだから不幸で恐ろしい、と言い含んでいるわけじゃないのか、と理解。同時に、もしこの数年以内に「コロナの時代の愛」というような表題で本が書かれることがあったとしても、やはり同じような用いられ方になるのだろうと思った。というのも、疫病時代の当事者じゃないとわからない、「当たり前に疫病が蔓延るなかでの愛を主題にした人間の日常生活」の話なので、疫病が過剰に恐ろしい扱いを受けていないのである。こういう前提を自分がすんなり理解してこの本を読み進められる辺り、この約二年間程のコロナ禍で、自分と歴史的疫病との距離が相当縮んだのだろうな、と感じた。